2016年4月16日土曜日

聖徳太子はいなかったって?

何を根拠にするのか、孔子も聖徳太子も実在しないのだという説を唱える人がいる。
何か政治的な思惑でもあるのだろうか?

聖徳太子についていえば、太子像として描かれた絵の人物の大きさが違うからだという。
これを日本人が言うとしたら、何か回し者として取り込まれているとしか思えない。
法隆寺の釈迦三尊像の光背に刻まれた歴然たる事実、聖徳太子に似せてこの仏像を造ったという銘文をどう説明するというのか?それは、無視するらしい。
当時の中国に起こった軍事大国「隋」に、一歩も譲らず対抗したのは誰だったというのかといえば、それは聖徳太子だったというほかあるまい。
「日いずるところの天子・・・云々」は、あまりにも有名である。中国皇帝は怒りはしたが、手はだせなかった。
日本は、宋書に書かれていることによれば、半島の半分くらいまでをも納めていた超大国であった。流石の隋も手を出せなかった。

白村江の戦いで唐軍30万人に敗れて半島から撤退するまで、少なくとも南部は統治下にあった。
百済は大和朝廷に人質をさしだしていたし、その人質は日本で学んでいた。
欽明天皇の時代に経文と仏像を献上したと書かれているのはその通りだとして、日本に仏教を教えたなどというのは烏滸の沙汰。
自国に誇れる献上品などないから、伝来の仏教経典を代替したのだと考えた方が理に叶う。
538年に仏教が伝来したことになっているが、2世紀にはもう仏教は日本にきていたとも言われる。

日本に教えたのだとしないと面子が立たないのかも知れないが、日本も唯々諾々それを認めることはあるまい。史実はどうも違うように思える。
中国の文献によれば、そうとしか思えない。中国は、半島に配慮する必要はなかった。
こんなあたりのことを、時間が有ったら調べてみるのも面白そうである。
国家としても、文化としても、わが国の方が、少なくとも半島よりは進んでいたように思う。

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