2016年4月23日土曜日

弊害があっても報道は保護されているのだから

熊本地震の報道の仕方に、行き過ぎや配慮なしなど、何かと問題があるらしいが、それは殆ど報道されない。

報道の自由というのは、かなりの広範囲にわたり許されているのだろうが、必要以上の取材で見世物扱いにしていたり、地域住民の邪魔になるような振る舞いをしていることが、反発を招いているようです。

それに限らず、報道の自由ということで、例えば事実誤認のまま報道されても、後に修正記事が出されればまだ良い方で、謝罪がなされたり、それによって引き起こされた損害について賠償するなどということは殆どないように感じます。
名誉を著しく毀損されたとしても、泣き寝入りになってしまう人のケースの方が多いのではなかろうか?
犯罪者であっても、刑が確定するまでは推定無罪ということで人権が保護されるというのに、およそ犯罪とまではいかないことでも、メディアに取り上げられ面白おかしく扱われることで、社会生活上の死刑判決に等しい結果を負わされている事案も目にする。
狙われたら最後、生贄状態となってしまうのでは恐ろしすぎる。

世の中には、正義の味方を自認する人が多いが、自信をもって人を裁けるほどの人が、そんなに多いとも思えない。

報道の自由というのは、弊害が仮令あっても、手厚く保護されている。
それであればこそ尚、自らを厳しく省みて、他からの批判に耐えられる姿勢を貫かねばならないのではないだろうか。
自浄作用というのが働かなければ、組織は無責任の塊になりかねない。全ての責任が免除されている筈のものではないと思う。

表現の自由の理論を提唱したアメリカの研究者にメイケルジョン(Meiklejohn)がいます。
メイケルジョンは表現の自由の価値を自己統治(self-governance)の必要性から求め、人間社会は自己統治共同体であり自己統治のためには情報、世論にアクセスすることができねばならないことはもちろん、相互間に討論することができなければならないと述べています。
主権者としての国民は、自分自身が政治過程に参与し、自身の手により自己を統治する憲法上の権限をもつために、自己の決定を通じて社会的利益を創出するために問題になる争点の判断に適合する資料、つまり情報、意見、疑問、曖昧な点、反対論など一切のものに自由に接近することができるようになり、その過程で表現の自由は必須的な要素であることを明らかにしています。

この理論はいまだに表現の自由の保障を合理化する最も有力な理論として主張されており、特に政治的言論の重要性を強調しています。また、この理論は政府からの保障を重要視するものとして消極的自由の性格も有します。しかし、この理論は表現の自由を正当化させるには有益かつ充分な説明を提示できないままでいます。

したがって、この自己統治の機能は狭く解釈され、国家権力に対する牽制手段と看做され、牽制価値という表現の自由が保護される根拠として公権力の乱用を牽制するとき寄与する点に価値をおくものになってしまっています。民主主義の観点からは、一般市民の役割は公共政策の維持が基本になるのではなく、公共決定での拒否権が重要になります。


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