2020年2月10日月曜日

チャンネルを変えてしまう番組


昔は討論番組をよく見たが、最近は殆ど見ない。
初期のころは、いろんな視点からいろんな判断や説を導き出し、それが披歴されるのを見ることが新鮮であった。
知らないでいたことを知ることは、人としての喜びでもある。要するに、自分はこの世のことを殆ど知らないのだと、謙虚に悟ることのできる場でもあった。

それがいつとはなくそういうものを観なくなったのにはいくつかの理由があるが、議論というのは相手の説をまず聞いて、互いの論理をすり合わせることがなくしては叶わない。
しかし、そういう番組を見ていると自説を絶対に変えることなく、相手の論理性を攻撃的に否定することしかできない人が多すぎるように思えるのである。議論というのは穏やかに進めてくれないと、見ている側は不快感の方が先に立つ。
甚だしきは、それを調整してとりまとめをする司会者が、自分の考えている持論と違うと、大声で発言中の意見を遮ってしまう番組運びをして平気、という場面が連発される。
そんなのが司会だとすれば、番組の方向性は議論の前から決まっている。即ち、偏るのである。

時代が進み、科学も進み、世の中の常識も変わるのは普通であるが、自分がこれまでに得た知識が最高だとする思考の範疇から抜け出せず、新たな或いは旧来からの考え方を受け入れることができずに頭からそれを否定してしまう狭量さを感じさせることも、番組を見なくなった原因の一つである。
意見を聞いたうえで反論するのならわかるが、捉われているのはイデオロギーが根底にある感情論では、老害としか思えない。
その番組を観なくても、知識を得る方法は昔と違っていくらでもある。

リベラルを標榜する彼らが一様に否定するのは、古いと彼らが一方的に決めつけているもの。
彼らが新しい考えだとするのは何なのか?
彼らこそ古いイデオロギーに捉われているのではないのか?多様性と口ではいうが、他を認めない言動を声高に繰り返すのは、彼らの側のように見える。
伝統として深く定着しているものを否定することはできまい。そういう古き良きものまで否定することも、一部司会者がよくやっている。
自分が身に着けた知識は、まだごく一部であるのだと認識する謙虚さがないと、ものごとは前進させられない。

憲法問題もそうである。憲法はころころ変えてもよいものだとは思わないが、法というのは現実に対応できなくては意味がない。
憲法学者は既定の法の法解釈はするが、将来にわたって必要となってくる改定も含めた法整備について意見を述べることはまずないように思う。

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