2020年2月17日月曜日

神を感じ取る感性


日本人は古来より神とつながる感性を自然に備えていて、神と共にある民族なのだと思える。
だから、巷間言われるような無宗教なのではなく、DNAに浸みこんだ信心の力によって日々を過ごすことができる。
海外から日本に迎え入れた神々も、仏教であれキリスト教であれイスラム教であれ、日本古来の神々と融合させてしまって違和感を感じていないのも、それが根底にあるからであろう。

人として生きていくために望ましいと考えられることに挑戦を繰り返し行動してきた過程で、文化は発展したのだと思うが、ものごとを為す上で想定外な結果がもたらされたことは多かったのは当然である。
その想定外な事象の中に神意を汲み取ろうと謙虚に向かい合って、それを智慧として積み上げてきたのだと思う。
想定外の結果や、最初から侵すことができないものとしたものの総称を神としたのであると考えると理解しやすい。
神へのお作法は自ずから定まり、それが身についている。祈ることであったり神社として祀ることであったり鎮めるための結解をつくることであったりしたのであったが、侵すべからざるものとして畏まる感覚が醸成されてきたのが日本民族の意識なのだと思う。
祝詞をあげたり、叙事詩で自然褒め言葉にしたのも、その顕れである。

科学が発達してきたことで、人間の霊力を軽くみるようになってきて、頭だけで考えた意見が先行するようになってきた。
例として適当かどうか判らないが、ナンバーワンとオンリーワンというのがある。
ナンバーワンというのは、それに携わる者が沢山居る中でのトップということであり、オンリーワンというのは、それにかかわる者が一人であるということであろうが、オンリーワンの使われ方としてはそれでいいではないかとなり「頑張らなくっていい」という慰めの言葉がそれに続いていることが多い。
ナンバーワンにしてもオンリーワンにしても、そうなれることには努力が伴っているのであるから、教育の場にある者が使わねばならない言葉は「自分ができるところまで頑張りなさい」と、強制にならない範囲で励ますことではないのか?そうしてこそ人としての精神性は育つ。
唯物史観では計れない領域ということになる。
それをしないから、「夜郎自大」な者が育つようになり、他者への敬意どころか思い上がった自尊意識は、自分の思い通りにならないことをすべて他のせいにして憚らない者が多出することにもつながる。その甚だしきは、自分の意に染まないものを排除する行動に走ることもある。
自分の努力不足は、本人もうすうす感じているから、努力で乗り越えている身近な人たちを襲うことはは決してない。「誰でもよかった」と逃げ口上することでもわかる。要するに、神(何か偉大なもの)への作法を知らないからに他ならない。

自尊が蔓延してしまったいい例が、儒教の弊害かどうか知らないが「こうあるべきだった」として歴史すら捻じ曲げ、望む結果が得られなかったのは全て他人のせいだとして恨むなどというのを常態化している地域である。自分の努力不足にさえ気づけない精神構造になってしまって、神をも恐れない人を沢山生む結果を招いてしまうのではどうにもならない。

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