2020年2月8日土曜日

否定しきれないものが在る


巫祝(ふしゅく)とは、神事をつかさどる者のこと。
国の大事に関して祈り、神と諮ることができるのは、日本では天皇しかいない。オカルトだの何だの言ったって、事実であれば仕方がない。
政治的な王の地位を狙ったと思える者も過去には居たように思えるが、いずれも巫祝の能力が伴わないことで諦めざるを得なかった。
例えば藤原氏(その先祖は中臣の鎌足であるが、出自が判然としていない)も、次々に有力豪族を追いやり、菅原道真も九州に左遷するところまでは成功したが、怨霊と化した道真により、藤原家の中核をなしていた3人が次々に変死を遂げたことで潰えた。

その怨霊を鎮めたのは天皇である。科学的でないと言い張っても、科学では判らないことも多い。
その後も、足利や織田も色気を見せたようだが叶わなかった。

それでも歴史上、天皇家が政治の中心に居た時代は少なかったのではなかろうか?
政治と巫祝で住み分け統治したことが、長い歴史を刻んでこれた要因のように感じる。
「世襲で地位を継いでいいのか?」などと言うのは、マルクス史観による発想なのだろうが、彼らの主張したものがうまくいっている事例は世界中探してもあるまい。

日本列島は火山のマグマが縦走していることもあってか、ユーラシア大陸や朝鮮半島の国々とは違って、土地に神性を感じ取っている民族なのではなかろうか。
建造物をその上につくるとなると地鎮祭を行ってその土地の神に祈るが、誰もそれに異を唱えることはない。
科学が発達した現代においても、日本人は疑いもしないでそれを行う。世界中で日本だけではないだろうか。
迷信ではなくて、民族が培った叡智なのだとしか思えない。

日本人は信仰はしないが信心はするといわれるが、「神」を感じ取る強い力が一人一人にあるからだと思えてならない。
他国の神様であっても他国人の墓であっても、そこを通る日本人が頭を下げたり手を合わせたりしているのを見て誰も違和感を覚えることがないのも、そういう神への感性が備わっているからなのだと思う。
神というか、人知を超えた何か偉大な力を否定することはできない。

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