2015年7月24日金曜日

母国語に翻訳できなければ外国語をつかうよりない

学問というのは、言葉があるからできる。
ことに学術研究は、概念としての言葉の定義が明確になされていなくてはできない。
明治期に欧米先進国の文明を取り入れるとき、先人たちは外国語を見事なまでに日本語として翻訳した。それがなければ教育は外国語によらねばならなくなるのは当然の帰結であるが、そうはならずにすんだばかりでなく、先進的な研究も可能になっている。

その当時に、西欧の文化文明を適切に表す日本語というのには足りない言葉が沢山あったに違いないが、日本語に訳す、あるいは新たな日本語を作って意味が理解できるための基本的教養というのがあったということでありましょう。

勿論、そのために多大な苦労があったであろうが乗り越えてくれたおかげで今がある。
この恩恵は漢字圏に伝わり活用されたのは事実である。中国でも韓国でも、そのとき日本でできた漢字熟語は、認めたくはないだろうが使われている。
そのことによって、いかに教育や文化が進んだことか。

それが面白くないといって漢字を廃止したのだというが、それによって後退してしまったことに気づくには時間がかかりそう。



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