2017年11月14日火曜日

死んで花実が咲くわけではないが

韓国が余りに反日で騒ぐので、戦前・戦中・戦後のころを調べてみるようになった。
知らなかったこと、伏せられていたこと、曲げて教え込まれていたことがいろいろ分かってきて、
そういう意味では韓国に感謝している。

歴史修正主義者でも何でもないが、知らされていなかったことや枉げて教え込まれたものは、正しく知っていた方が良いのだと思う。
知ってどうこうしようというのではない。知ることで痛みを伴うこともあるが、それでも知って置くべきなのだと思う。
ときには、そうだったのかと嬉しく思うことも出てくる。意外なことに敵国人だった人の日本への評価が高かったりする。

終戦70年を過ぎ、ふと考えて、終戦後に責任を取って痛ましくも自ら死を選んだ武人というのにはどんな人がいたのかと思って調べてみました。
そもそも、武人というのは戦いに臨んでは死を覚悟する。
戦いのうちに死んだ将兵は数多いと思うが、生きて終戦を迎えてしまった軍人はどうだったのか、ということです。
古来より武人は、戦いに敗れれば死を自ら選ぶことが多かった。
死んで花実が咲くものかとはいわれても、自害するという文化があったように思う。
死なずに生きた人たちには、それぞれの存念があったのだと思うが、それを責める気にはなれない。

阿南惟幾大将(あなみ これちか)は、815日早朝、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で割腹した。遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 神州不滅ヲ確信シツツ」と
記されていた。
「謝シ奉ル」というのは、国民や軍に対してではなく、陛下に対してという意味になるが、軍人が国体の護持ということを目的にするのであれば、異とするには当たらない。

終戦で自決した軍人は、知られてはいなくても数多かったのだと思う。
終戦時の自決者については『終戦時自決烈士芳名録』という書籍に記録が残されているという。将官(小将以上)の自決者37名の内訳をみると、陸軍が31名、海軍が4名とある。
海軍に比べ陸軍将官に自決者が多いのは、すでに壊滅に近い海軍に比べて陸軍は本土決戦の覚悟があったためであろうと推測される。
将官以下の軍人は568名の名前が書かれているというが、名を残さず自決した軍人もまたいたであろうと思われる。
主な将官としては
寺本熊市・陸軍中将(陸軍航空本部長)終戦の日に日本刀で割腹自決。
大西瀧治郎・海軍中将(海軍特攻の父といわれる)8月16日「吾が死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」との遺書を残し、割腹自決。
田中静壱・陸軍大将(憲兵司令官、第21方面軍司令官兼東部軍管区司令などを歴任)8月24日ピストル自決。
島田朋三郎・陸軍法務中将 9月4日ピストル自決。
杉山元・陸軍元帥(陸軍大臣・参謀総長歴任)9月12日ピストル自決(胸に四発撃った)。夫人も青酸カリで殉死。
本庄繁・陸軍大将(枢密院顧問、関東軍司令官を歴任)11月20日、割腹自決。
東條英機・陸軍大将(元首相)は、真っ先に自決するであろうと世間は考えていたが、9月11日、米軍側から召喚に来るや否や、ピストルで自決したが、急所を外れたが、女性用の護身銃であったことから、米側の手当てにより死には至らなかった。死なせてやるのが武士の情けということだと思うが、死ねなかったことでとかく悪くいわれたけれど、生き延びようとしたのだとは思えない。
満州で、多数のユダヤ人難民を救ったということを知る人は殆どいない。

とかく非難することは容易であろうが、自分にもそれができるかと問われたら、甚だ心もとない。
死ねば良いとは思わないが、戦争中も死と隣り合わせの覚悟を持っていたのだと思う。
指導者が完全無欠などということはあり得ないし、功罪はある。軽々に後に生きている者が口にできない事態の中でのことを背負わねばならない時代だったのだと思えてならない。

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