2017年11月5日日曜日

旭日大綬章

秋の叙勲者の発令がありました。
叙勲された人たちを見ていて思い出すことがある。
勲一等旭日大綬章ということになると、簡単ではない。

カーチス・ルメイ少将(後に大将)は東京大空襲の指揮官として、非戦闘員を殺戮しないという国際法に反し、周りを爆撃して逃げ道を塞いだ後に中を爆撃するという方法で、広島・長崎の原爆投下によるよりも遥かに多い10万人余の一般市民を焼死させた。
しかし、時がたち1964年12月7日、日本に返還されたばかりの入間基地(旧・ジョンソン基地)で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。授賞理由は、日本の航空自衛隊育成に協力があったためであるとされている。
推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名で行われた。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである。
ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対し批判も大きかったが、佐藤首相が決定した。
いつまでも過去にとらわれず、功は功として認めるということであろう。
勲一等の授与は天皇が直接手渡す“親授”が通例であるが、流石に昭和天皇にとってこれは心情的に無理であったのか、前述の航空幕僚長によってなされた。

アーレイ・バーク(最終階級は大将。米海軍史上でただ1人、海軍作戦部長を6年の長きにわたって務めた。)
駆逐艦艦長として勇猛さを誇ったが、親友が日本軍との戦いで戦死したこともあって、徹底的な日本人嫌いであった。
太平洋戦争終戦後も暫くは反日的・嫌日的な態度を取っていたが、ふとしたきっかけから日本が早く占領状態から解放されるように軍人の立場から尽力、海上自衛隊の創設に協力することとなった。この功により1961年に勲一等旭日大綬章を授与された。
彼は他にも生前の様々な功績により、アメリカはもちろん各国から数多の勲章を授与されていたが、バークの遺志により、葬儀で彼の遺体の胸につけられていたのは、日本の旭日大綬章ただ一つだけであった。如何に日本を評価するようになっていたかが判る。
戦後まもなく、彼は日本に赴任したが、極端な日本人嫌いで、宿泊先帝国ホテルのサービスすら拒んだ。
潤いの乏しい部屋に花を一輪買ってきて、コップに水を入れて飾って置いたところ、翌日に花瓶に活け替えられていたのさえ、余計なことだと気に入らなかった。
日を経るに従って花は次々に新しいものに挿し替えられていくのだが、それがルームサービスの係員の一存でなされていることを知る。
部屋に呼んで余分なことをするなと問い詰めたところ、女性係員は「お花がお好きかと思いまして。」と答えたという。ポケットマネーから買ってきているのだと聞きだし、お金を払おうとしたのだが拒まれた。日本人は、他人の気遣いを金銭に換算することはしないのだと理解した。
その後の滞在の中で、日本においては、親切には親切で報いるしかないのだと悟る。
女性の身の上を聞いてみると、主人は駆逐艦の艦長だったが海戦時艦と運命を共にしたのだと知る。
「もしかしたらその艦を沈めたのは私かも知れないのに、憎いとは思わないのか?」と尋ねると、「それが戦というものです。もし貴方が相手を沈めなければ、貴方の艦が沈められて命を落としたことでしょう。」
彼は、自分の考え方や行動を見つめなおすようになり、それにつれて日本人を理解できるようになっていった。親身になって日本の為に動いてもくれた。

日本人は、恨みつらみや憎しみを子々孫々何代にもわたって語り継ぐということは滅多にしない。苦しみや悲しみを乗り越えて、魂の浄化をはかる。
許すということがどんなに魂を大きくするかということを、知らず知らずのうちに長い歴史の中で培っている民族なのだと思えてならない。


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