2017年11月19日日曜日

良いものを求めるには良い道具を

息子のスタンウェイのピアノが、少し間をあけて2台並んでいる。
その2台とも鍛え上げられていて、素晴らしい音色を出す。
初めてレッスンに来てそのピアノに向かう人は、最初の内は音が出せない。
音階が出ないと言うのではない。その楽器の持つ本来の音色が引き出せないという意味である。
だから、しばらくは少し自分で好きなように弾くのに任せている。
なぜそうなっているのかというと、触ればすぐに音が出てしまう鍵盤では、微妙なニュアンスを出すことができないし、弾くときに必要以上にピッチが上がってしまうから、バランスが崩れてしまうからだと言っている。
コンサートなど、客前で最善のものをと常に考えれば、そうなるのかも知れない。

ザルツブルグに居たときは、ベーゼンドルファも並べて弾いていた。
このピアノも、弾き手の技量をピアノが判断するといわれるくらいで、リハーサルなしで弾くことが難しい。
音楽に限らず、道具と言うのは最初から良いものを使う方が良い。初心者だからといって適当なものを使うと、後の伸びがない。本物というのは、そういう力を秘めているようである。
名人と言われている人たちは道具を選ぶ。
良く切れる刃物は危ないと言われるが、それは全く逆で、切れない刃物を使う方が怪我をすることが多いということにも通じている。

ピアノには素人であるが、練習しているのを聴いていると、欲しい音を求めて限りない努力を飽くことなく続けているように感じる。
粒の揃った伸びのある美しい音楽を聴くのは楽しいが、そこに至る過程を垣間見ることができることも幸せなことだと思っている。
拍の数え方をきちんと身に浸みこませていないと音楽が崩れるということで、未だに時々はメトロノームも出してきてチェックしている。
舞踏が基本となっている音楽は、体にあるリズム感が共感するかどうかなのだと思う。

音楽でも絵画美術でも伝統工芸品でもそうだが、周りへの配慮がなされているものが伝わってくるものは、快い感動が後まで残るのだと感じさせられている。

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