2017年11月4日土曜日

言葉だけでは表現できないものもある

人は、人が真剣になっての立ち居振る舞いに感銘する能力というのがある。
しかし、人の思いというのが伝わるのには、多くの場合言葉を介してということが多い。
言葉というものにはある種の魔力というものが有るように感じる。

だから、感想を述べるときには気を付けた方がよい。
例えば、美味しい料理を食べたり、芸術品に触れたりしたとき、すぐに感想を口にする人というのがいる。
それはそれで悪いとは言わないが、一旦言葉として口に出すと、それは自分の行動を縛るようになる。本当はもっと深いものがあるかも知れないのに、そこに気づく機会が失われる可能性だってある。
更に言えば、自分が言ったことが、他の人の感じ方にまで影響を及ぼす可能性のある立場の人は、口に出す前に一呼吸の間が必要なのかも知れない。
さして意識しないでそんな物言いをするのは、ある程度、道を究めた人に多いように感じる。

料理の味がわかると自任している人に、特に多いように感じる。
味がわかるから、自分の口に合わない時に、何かと注文をつける。他人がどう感じているかは意識の外にある。その味が好きだと思っている人がいるということなどは考えない。

自分が他より優れていると威張りたいレベルの人ならそれでも良いとしても、そうではないのにそれを続けた人は、何を食べても美味しいと感じることができなくなったかのように、どんな美味しいものを食べても不機嫌な顔をしているようになっているとしたら、それは自分だけにその知識や能力を囲い込んだままでいるからである。
判ることからくるその喜びを、周りにも教え、享有することを考えないと、楽しくはならない。

絵でも音楽でも舞踊でも、判る人は至らないところばかりが目に付くのは仕方ないか、感動するところは述べず、批評することの方が多いようになっていたら、気を付けたほうが良い。
折角努力して身に着けたもので、他から疎んじられることになりかねない。
見方によれば独善とも見て取れるからかも知れない。
傍から見て幸せそうには見えないとしたら、思い方や振る舞いを自省した方が良いと感じる。
なぜなら、自分が出した悪い波動は自分に返ってくるからである。

極めることが大切だということも、解かるということも大事だが、そこから先のものが有るかも知れないとしたら、或いは判ることの喜びや楽しさを自分だけのものにしないということまでを意識したら、バランスをどう捉えるかということになる。

違う言葉を使ったらどうなるかということでもあるが、伝えるためには言葉だけで表現しきれないものが有るのだと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿