清掃のなかには、洗うということが大きな部分を占めています。
心を洗うということもよくいわれますが、洗うということにはいろいろの意味があります。
さて、食べ物を洗うということについてでありますが、体の中に入れるものは出るものとは違い、なんであれそもそもが綺麗なのではなかろうか。
それでも、洗って綺麗な方が食べて美味しいことはちがいない。
宮崎県串間市の幸島(こうしま)の雌サルが、あるとき餌の芋を洗って食べることを覚えた。
泥や砂がついていないことは、さぞ口当たりがよかったことだろうが、身内のサルを経由して島全体のサルに伝わった。それが100匹を越えるころになると、突然、海を隔てた大分県の高崎山の猿に伝播した。
猿のことであるから、電話もTVも手紙もないのにである。
この101匹目の猿の話は、シンクロニシティの説明に使われることが多い。
よいことが皆に広まって、誰もが幸せになるというのは喜ばしいことではあります。
話はがらっと代わり、昼食を摂ろうと会社の外に出たところ、道路のそこここにカップラーメンの空カップが置いてある。というよりは捨ててある。
近所にある高等学校の生徒がコンビニで買い求めて食した後、そのように置き捨てして帰ったものであります。
誰がそれを片付けることになるのかは、意識にない。自分には関係ないというわけであります。
一人一人のときにそんなことはしないが、何人か群れると、イキがって恥ずかしいことでも平気でする。他人への慮りなどという人間の持つ徳目などどこへやら、互いに戒めあうことなどさらさらない。
「自分さえよければ」という育ちの悪さが如実に現れてしまうところが情けない。
猿にも劣るこういう行為も、そうする人が増えて伝播したのだろうか。
私権は公共の福祉に従うということが、絵空事であっていいはずはない。義務セットなのだとまではいわないが、恥ずかしいことはしないに越したことはないと思うのです。
でも、一人ひとりに話をしてみると、本当はいい子が多いのも事実。
ワルぶらないと仲間の付き合いができないという風潮を、どこで断ち切るかということになりそうです。
微力をつくしてはいるけれど、先は長い。
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