2013年2月4日月曜日

いじめや体罰の報道に感じること


次々に明かされるいじめや体罰の報道に、なぜか言い知れぬ不安感を覚えてなりません。

それらが無いに越したことはないというのは無論なのですが、何か違和感を遠くの方で感じてしまうのです。

 

した方、された方のどちらかに与してということでないことは、予めの前提とします。

 

報道されることを見たり聞いたりしていると、いずれもが正義の味方であるとの立場を崩していません。

錦の御旗を振り翳したら、誰だって表立っての反論はできません。

即ち振り翳した側は、自らが傷つくことはない保障を得たに等しいことになるのですが、そのことも今回論ずる心算はありません。

 

違和感は、どうしてどこもかしこも一辺倒に同じような内容で報道するかということです。

甚だしきは、経歴・交友関係・親戚関係・プライベートなどなど、洗い浚い暴き出して責め立てるに等しいやりかたをしているように思えます。

 

世の中に、100パーセントの正義と100パーセントの悪というのが有るのだろうか?

3分の利という部分に触れていれば、まだ納得できるけれど・・・

 

こうした、寄ってたかっての報道姿勢は、いじめや体罰とどこが違うのかと思ってしまうのです。

追い詰められた結果が、死に結びつく可能性を持つことは、想像に難くない。

どこかに歯止めや自制がかかる姿勢があっても良い。

 

事実関係を明らかにして問題点を解決するのにだって、手段は選ばなければならないのだと思う。

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