東日本大震災の被害地のその後はどうなっているのだろう?
今回、老人6人が集まって仙台辺りを訪ねることに決まりました。2日間かけて目の当たりにしたのは、復興されるのはまだまだ先になるのではないのかという重い現実の光景でした。
閖上(ゆりあげ)、読めない漢字でした。
仙台藩四代藩主伊達綱村が、領内の村を訪れ、地名を聞いたところ「ゆりあげ」との言葉 を得た。「文字はどのように書くのか」と重ねて尋ねると、「文字はありません」との答えであったので、 門から海が見えたところから、「門」に「水」の文字を用い「閖上」と記するようにせよということになったのだという。
案内の運転手さんは、海に浮かぶ船が揺れるところから「ゆり」の音があったのかも知れないとも話してくれました。
名取市閖上中学校は、大震災の津波に襲われ、14人の生徒が犠牲となったことから、14人の生徒一人ひとりの名前が刻まれた慰霊碑が建てられて いた。お線香を手向け手を合わせ見上げると、2階の上あたりにあたる外壁に懸けられた2時46分で止まった時計が痛々しかった。
海から2キロメートル離れているここに襲いかかった津波の高さは8メートル。
学校の周りには、コンクリートの基礎だけ残った住居跡が見渡す限りの広さで続いて、そこに雑草が茂り始めているのが尚更に焦りを誘います。
とにかく広すぎる。中途半端な寄付や義捐金で何とかなるとはとても思えません。
復興予算を扱う人は全員、実際に被災地を視るべきだと思います。目の当たりにしてなお、税金の流用をする気になれる人がいるとは思えないからです。
行く先々に慰霊の碑があるので、見た限りの碑にはお線香を焚き手を合わせたが、それ以上に何かをできないもどかしさが感じられてなりませんでした。
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