2013年7月8日月曜日

介と助、から


時代劇を見ていると、自分が封じれれている所領地でもないのに備前の守だとか越前の守なんていうのが出てきます。

守(かみ)ではなくて介(すけ)もよく出てきます

織田信長も上総介なんていってた時期がありました。上総の守とは名乗りませんでした。

官職は、勅許のものであったからということだけではないようです。

 

 織部焼きで有名な古田織部も、秀吉から「なんでも好きなのをつけてよいぞ。」と言われたのに、守はおろか弾正も務も武ばったのはいやだというので、織部なんてのにしたっていうんだけど、ほんとかしら?

 介は助、ナンバー2のすけっとってことです。

 

助というのが、言うなれば助役ということであるにしても、助力ということになると、助は少しニュアンスが違ってきます。

 

願い事を叶えることのできる人というのがいます。他人からも運からも神様からも、なぜか応援をされてしまう人のことです。

自分の努力だけではどうにもならないと思ったとき、神頼みをするのは普通のことです。

 何らかの願い事があって、神社仏閣に詣でるのはよくあることですが、なかなかその願いの筋が聞き届けられることはないようです。

 そんな人は、この世的な日常生活においても、誰かにものを頼んでも聞いてもらえないことが多いようです。

 

 人は他人にものを頼まれても、親身になってそれをやってあげたいと思える相手と、そうではない相手がいます。

 その差は一体なんなのでしょう。

 

 明らかに言えるのは、その相手が好きかどうかということであり、好きでもない相手に助力しようとすることは殆どありません。

 好かれるということが大事なのですが、好かれる人というのは、相手が喜ぶことを必ずどこかでやっています。

 神様や仏様でも同じことです。お賽銭の多寡では決してないと思えるのです。

 神様も仏様も、清浄であることを望みます。墓石クリーニングをやるのは、喜ばれることの一つの方法です。

 水洗いくらいでは落ちないよごれは、人が衣類の洗濯を水洗いくらいでは満足できないのと同じことだと思うのです。

喜ばれるということは、一歩踏み込んで満足される状態を提供できるかどうかということであります。

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