2017年6月18日日曜日

多様性は認められて然るべしだとは思うが

百人居れば百様、千人居れば千様、万人居れば万様の主張があって不思議はない。
しかし、各々がそれを主張しあったら、究極のところは優勝劣敗、強いものだけが生き残ることになる。
人間社会を形成するにはそれではならじということで、弱者救済とか少数意見の尊重ということになる。
多様性ということも認められて然るべしということになるのは、どこかで折り合いをつけ、譲り合うからできることだと思う。
最近気になるのは、多様性ということを主張する人たちの中に、自分の主張のみが絶対で、他の意見は全否定するかのような言辞を弄しているのではと思われることが多いこと。
多様性を言い立てるのなら、他の意見をも認めるということでなければ論理は成り立つまい。
それなのに、神でもあるまいに他は認めないとする頑なさが見受けられる。
イデオロギー絶対というのでは革命でも起こすほかないであろうに、また、そんなことは不可能に近いであろうに、なぜか譲るということをしない。

人間社会は良い悪いは別にして、大方の意見がどうかということで互いが折り合いをつける。
であるからこそ、偏向報道やプロパガンダや刷り込みは排除されなければならないのだと思う。

悲しいかな、それでなくても人間は付和雷同することが多いのである。

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