2013年5月10日金曜日

姿勢が保てないということは


 先日さる会合があり、よんどころない事情があって出席しました。

 直接的にその会の趣旨とはちがうのだけれど、関連があってある高校の校長先生がマイクをもって話しをされた。

 いくつかのことを話題にしたのだけれど、内容はさして覚えていません。気になったのは、話をしている間ずっと身体をぐにゃぐにゃ曲げ動かし、きちんと立っていることができなかったこと。

 教育は、知識の追体験を効率よくさせることも大事だが、思いのたけを伝えることがもっと大事だというようなことをいっていました。そうあって欲しいけれど、仕種から見てその覚悟があるのかどうか迫力にかけていて、言うことと実態とはかけ離れているように思えた。

 苛めについても、それに到るに事情があるようなことも言っておられましたが、何をやるんだって事情や理由、あるいは言い分があるに決まっている。

 だけど事情や理由があれば何をやっても許されるわけはないのであって、超えてはならないノリというものが人にはあるのだから、悪いものは悪いと単純化せずばなるまい。

 変に物分りがいいようなことを言うと、解決するのが難しくなるんじゃなかろうか。自分の旗幟を明らかにすることに、皆がもっと勇気を出さねばなるまい。

 

 あと、「いきざま」「いきざま」と何回も繰り返すのがたいそう気になりました。

「いきよう・しにざま」、というのがもともとの日本語。「ざま」というのは、「ざまを見ろ!」という使い方に代表されるように、決して美しい表現ではありません。教育者であるなら、努めてきれいな言葉をつかいましょうネ。

 うちの家内は、生き方というのが良いのではというけれど・・・。

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